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徳川家康


日本歴史

日本歴史の時代区分では、ふつう、原始時代、古代、中世、近世、近代、現代というふうに分ける。
中国の歴史書によると、2、3世紀ころ、北九州に多くの小さい国があったことが知られるが、4世紀になって、大和朝廷が近畿地方を中心に、ほぼ、日本全国を統一した。この時代から奈良に首都があった奈良時代(8世紀)、京都に首都がうつってから12世紀の終わりごろまでの平安時代を合わせて「古代」という。それから16世紀の終わりごろまでが「中世」である。「近世」というのは、だいたい徳川氏が幕府を江戸(今の東京)においていた「江戸時代」のことをいい、1868年の明治維新で徳川幕府がたおれて、近代的な資本主義国家が出来てからを「近代」という。「現代」というのは、第二次世界大戦後をさすのがふつうである。

妙心寺

京都市の西北部に妙心寺という有名なお寺があります。妙心寺は、禅寺の中心の一つです。禅寺は仏教の一つで、西暦500年頃インドから中国に伝わり、今から800年ほど前に中国から日本に伝わりました。
禅寺の一日は午前四時の鐘で始まります。僧たちは四時に起きて、布団を片づけ、顔を洗い、そして寺の中の掃除を始めます。食事の当番の僧たちは、台所へ行って食事の用意にかかります。食事当番は六か月で交替します。当番によると、その六か月間、寺の人全部の朝、昼、晩の食事のせわをするのです。

五時になると、本堂に集まって朝の読経を始めます。読経というのは、仏教の経典を声を出して読むことです。朝の読経は六時少し前に終わります。
六時から六時半までの三十分間が、食事の時間になっています。食事がすむと、町へ托鉢に出掛けたり、着物の手入れをしたり、洗濯をしたり、頭のそり合いをしたりします。

托鉢のときは、僧たちはかさをかぶり、鉢を手にもち、一列に並んで、「ホー」と言いながら、町の中を歩いていくのです。町の信者たちは外に出て来て僧たちをおがみ、鉢の中へ食べ物を入れます。托鉢は、十日間に二回、つまり一月に六回行なうことになっています。
托鉢から帰ってくるのは、正午少し前で、正午から昼食です。食事の後は、座禅のために僧堂に行く人もありますし、畑で野菜を作る仕事する人もありますし、近所にたきぎや野菜などをもらいに行く人もあります。

座禅というのは、座って、老師から与えられた仏法についての問題を静かに考えることです。その問題のことを「公案」といいます。
禅宗の公案には、普通の人から見ると、随分変なものもたくさんあります。有名なのは、「手をたたく音がする。その音は左手の音か、右手の音か」とか、「旗が風に吹かれてひるがえっている。ひるがえっているのは、旗か、風か」などでしょう。

僧たちは、座禅をしている間、ほかのことは何も考えず、自分のもらった公案を考えつづけます。一晩中、座禅をする僧もいます。
禅寺の夕食は、普通の家庭よりだいぶ早く、午後四時ごろが普通です。明るいうちに後かたづけもすませるのです。
晩の七時から九時まで、全員が僧堂に集合して、座禅をします。その後、鐘がなり、それを合図に、僧は一人一人、老師の部屋へ行き、公案について話し合います。

僧たちの寝る時刻は、座禅をする人があるので、まちまちですが、だいたい夜の十一時頃のようです。

夏目漱石

夏目漱石は、日本の近代文学を代表する小説家の一人である。1867年東京に生まれ、1893年東京大学英文科を卒業。東京高齢、松山中学、第五高等学校などの教師を経て、1900年英国に留学、帰国してから第一高等学校の教授になった。「吾輩は猫である」「坊ちゃん」などで有名になり、1907年、朝日新聞に入社した。「こころ」「草枕」など、多くの作品が英語をはじめ外国語に翻訳されている。1916年、東京で、病院のため亡くなった。

外来語

わたしたちがいつも使っている言葉の中には、外国語からとり入れたものがある。それらの言葉を外来語と呼ぶ。
外来語は大体二つに分けることができる。一つは中国から伝えられたものであり、もう一つはヨーロッパやアメリカから伝えられたものである。中国から入ってきたものには、通行.学習.信(ずる).感(ずる)など、沢山の言葉がある。これらはみんな非常に古い時代に伝えられたので、今では外来語と思わずに使っていることが多い。それて、普通はヨーロッパやアメリカから来た言葉のことを外来語と呼んでいる。
外来語はそれぞれの国の文化と一緒に日本語の中に入ってきた。十六世紀から十七世紀にかけてポルトガルとの貿易が始まると、パン.カステラ.タバコなどの言葉が使われるようになった。江戸時代にはオランダとの貿易が盛んになり、アルコール.コンパス.ポンプなどのオランダ語が伝えられた。
明治時代以後はいろいろな国の文化が日本に入ってきて、外来語も非常に増加した。アトリエ.デッサン.クレヨン.マント.ズボンなど美術や服装に関係のある言葉は、フランス語からとり入れられた。ドイツ語からはガーゼ.カプセルなどの医学用語が、イタリア語からはオペラ.ソプラノなどの音楽用語がとり入れられた。また、英語からはペン.ナイフ.テニス.シャツ.ラジオ.テレビジョンなど、毎日の生活に必要な沢山の言葉入ってきた。
ところで、外来語は外国語がそのまま日本語になったのではない。まず、発音が変わってしもう。例えば、英語の「f」や「v」の音は日本語には無いので、film はフイルム、 violinはバイオリンと発音することが多い。また、名詞でないものも名詞として使われることが多い。例えば、英語のsignは「署名する」という意味の動詞だが、日本語では「サイン」は名詞であり、そのままでは動詞として使えない。「サインする」のように「する」を付けてはじめて動詞になる。それから、日本に入ってくると元の言葉の意味が変わることもある。
アルバイトという言葉は日本では「学生や社会人が学業や本業のほかに行う仕事」のことだが、ドイツ語のarbeitは「労働」の意味である。

たとえる

忙しくて忙しくて、だれでもいいから一人でも多くの人に手伝ってもらいたい。そんなとき、日本語では「猫のても借りたいほどだ」と例えて言います。たとえ猫が手伝ってくれてもそれほど役に立つとは思えませんが、何か口に出して言いたいと思って、こう言うのです。
また、「私の家には庭があります。でも狭いですよ」と言いたければ、これも「猫」を使って、「猫の額ほどの庭があります」と言います。猫にも、額の広い猫と狭い猫がいると思うので、日本語の分かる猫に聞かれたら、「失礼じゃないですか」と怒られてしまいそうです。
まだまだたくさん「猫」のお世話になる便利な言い方はあるのですが、「猫に小判」という言い方ほど面白いものはないでしょう。小判は昔のお金ですから、今なら「猫に一万円」と言えば、意味が分かるでしょうか。高い辞書を持っていても、全然使わずに、本棚に並べておくだけの人に、「猫に小判だね」と言うのです。
猫だけではなく、犬、牛、馬など、人と昔から生活をしてきた動物たちを使った言い方がたくさんあります。皆さんの国の言葉にも「猫の手」や「猫の額」、そして「猫に小判」などと同じような言い方がありますか。あれば是非それを紹介してください。

狭くて広い和室

日本は狭くて、土地か高いので、小さい住まいがふつうです。たいていの日本の家には、洋間と和室があります。洋間が好きな人もいるし和室の方が住みやすいという人もいます。世代と好みによります。同じ広さの洋間と和室を比べてみると、和室の方がいろいろな使い方ができるので、便利です。洋間はテーブルやソファー、ベッドなどの家具が場所をとるので、狭い部屋が、ますます狭くなります。けれども和室では、ベッドのかわりにふとん、いすのかわりにざぶとんを使います。テーブルも短い足の、低いテーブルを使います。そして、ふとんやざぶとんは、押入れにしまいますから、和室は広く、いろいろに使えて大変便利です。一つの和室が、食堂・居間・客間・書さい。寝室などになります。たたみにすわるので、天じょうが高く感じられます。低いテーブルも簡単に動かしたり、片づけたりできます。洋間にいすが三つしかない時は、3人しかすわれませんが、和室では5人でも10人でもすわれます。家中が集まったり、お客さんがたくさん来ても大丈夫です。和室が二つか三つある時は、しょうじやふすまをはずせば、すぐに2倍、3倍の大きな部屋になります。このように和室は、狭くても、即座に、広くなったり、いろいろな部屋に変わったりするので、洋間より便利で経済的です。
最近は洋間でも小さい個室が三つあるより、大きな一部屋を多目的に家中で使う方が便利だと考える人が増えています。広くて自由に使える和室にいつも家族が集まれば、家族の交流が自然に多くなって、すばらしいと思います。狭くて広い「変身上手」な和室は狭い日本にピッタリです。

「きつねうどん」と「たぬきそば」(日本の食べ物)

「あなたは、きつねとたぬきと、どちらの方が、いいですか。」「そうですねえ、きつねもたぬきも好きですが、今日はきつねにします。」これは動物について話している会話ではありません。では、どこで、何の話をしているのか分かりますか。おそば屋さんで、そばやうどんの注文をしている会話です。
きつねもたぬきもそばやうどんの種類です。皆さんはそばとうどんの違いが分かりますか。そばは少し黒い色で細くて、かたいですが、うどんは白くて、太くて、やわらかいです。きつねはしょうゆとさとうで、甘くにた三角形の油揚げをうどんやそばの上にのせた物です(油揚げはうすく切ったとうふを、油であげたものです。)動物のキツネは油揚げが大好きだと言われているので、この名前がつけられました。たぬきは天ぷらのあげかすをそばやうどんの上にのせた物です(天ぷらをあげた時に、天ぷらなべの中に残ったものをあげかすといいます)。
これは天ぷらのたね(天ぷらの中に、入っているえびや魚や野菜など)をぬいたころも(てんぷらの外側の部分)だけという意味です。「たねをぬいた」を短くすると「たねぬき」になり、これがもっと短くなって、「たぬき」と呼ばれているらしいです。
最近、都会では、動物のキツネやタヌキを、あまり見かけません。地方の山や村へ行っても、めったに見ることができません。キツネはきれいな女の人にすがたを変えたり、木の葉をお金に変えたりして、人をだますのが上手だと信じられています。タヌキは寝たふりが、得意なので、寝たふりをすることを「たぬきねいり」と言います。少し細くて、逆三角形の顔のキツネと丸い顔のタヌキとは対照的で、昔から日本人の話の中によく出てきます。
ところで、あなたの顔はキツネ型ですか、それともタヌキ型ですか。あなたは何かにすがたを変えることができますか。それとも、宿題を忘れたときに「たぬきねいり」が上手にできますか。今度おそば屋さんへ行ったら、メニューにたぬきそばやきつねうどんがあるかどうか見てください。

お風呂屋さん

日本人は「きれい好き」だと言われています。また「風呂好き」だとも言われ ています。たしかに若い人の間では「朝シャン族」と呼ばれ、毎朝かならず かみを洗う人が多いです。これは少し洗いすぎかも知れません。入浴について も厚生省の調べによると内風呂(自分の家にある風呂)がある人の中で、ほとんど毎日風呂に入ると答えた人が約50%、1日おきに入る人がおよそ30%、残りの20%ぐらいが、二、三日おきに入るそうです。外のお風呂屋さん(別名銭湯)へ行く人たちの中では、週に2度行く人が最も多いそうです。
お風呂と言えば、日本人の入るお風呂の平均温度は40度から42度くらいで、人によっては45度でもぬるいと言いう人さえいます。けれども、あまり熱すぎるお風呂は、からだによくありません。ほかの国々では大体38度くらいだそうです。ですから外国から来た人は、みんな日本の風呂はあつすぎると言います。
このごろは、お風呂屋さんの数がだんだん少なくなりました。風呂付きでないアパートの人は困ります。それに内風呂のある人でも、お風呂屋さんへ行きたい人も少なくありません。サウナ、泡風呂、薬湯、季節によって特別なお風呂もあります。1年中早朝4時から開いているお風呂屋さんもあるそうですが、これは大変珍しいです。
お風呂屋さんはからだを洗うだけのところではなくて、昔から人と人との交流の場でした。このごろは、外国人もちらほら見えて、お風呂屋さんも国際的になってきました。

花火

花火は夏の楽しみの一つです。日本中あちらこちらで 花火大会があります。川や湖や海岸であげることが 多いです。北海道のとうや湖であげられた世界一 大きい花火は、直径が108メートルで重さが42キログラムもあったそうです。 ドーンとあがったあとで、水面におちた火の粉の輪は直径800メートルもあっ たそうです。日本ばかりでなく、外国でも花火が見られます。たとえばアメリカでは7月4日の独立きねん日に各地で見られます。色々な花火があがって、最後はナイアガラの滝やアメリカの国旗・星条旗の花火で終わります。
でも花火をしてはいけない州もあるそうです。 東京の花火会では、何と言っても隅田川の花火会が一番有名です。たいてい7月のさいごの土曜日に行われます。その時には、ひじょうに おおぜいの人が見物に来るので、まるで東京中の人が集まったようです。
早くから予約しておいて、屋形船に乗って楽しむ人もいれば、川の土手に見物席を取る人もいます。でも多くの人は、人の流れにそって歩きながら見物します。花火は二つの場所からドドーンとあがり、パッと広がって、いろいろな色や形に変化します。それは「しかけ花火」と呼ばれていて、毎年コンテストも行われます。
わたしはゆかたを着て見に行くのが楽しみですが、テレビで見ることもあります。見物人の中には、外国人もたくさんいます。次から次に「ドドーン」とあがって、「パッ」と散る花火はとてもごうかで美しく夢のようです。長い時間、つづけて見ていると、首が痛くなります。毎年この日をみんなが首を長くして待っています。

七夕

天の川の西側に機織の上手な織りひめという美しい星がいました。織りひめは毎日毎日機を織って暮らしていました。天の神様はそれを見て、天の川の東にいるけん牛という若者の星と結婚させました。ところが、結婚してからの織りひめは機を織ることも忘れ、毎日遊びふけっていました。それを知った天の神様は大変怒り、織りひめを天の川の西側に連れ戻してしまいました。それからの織りひめは毎日泣き暮らしていました。それで天の神様は一年に一度だけ七月七日の晩に織りひめがけん牛に会いに行くことを許しました。

これは中国に昔から伝わる星の伝説です。また中国では織りひめ星は養蚕や糸、針の仕事の神と考えられていました。それで、織りひめの願いのかなう七月七日の七夕に酒や果物を供え、裁縫などの上達を願う行事が行われました。


この行事は八世紀の日本に伝わり、当時の貴族の間で行われました。これが一般的になったのは江戸時代になってからです。

初めは、子供たちに読み書きを教えていた寺子屋で、習字や手芸の上達を祈る行事として行われました。この日寺子屋で子供たちは短冊に字を書いてささに結び、それを外に立てました。これが盛んになって庶民の間にも広まっていったのです。


現在でも子供たちは色々な願い事を紙に書きます。そしてこれを折りづるなどと一緒にささに結びつけて軒に立て、七夕の夜を過ごします。

端午の節句

五月五日は端午の節句です。この日は今は子供の日といわれ、国民の祝日になっています。
八世紀のころ、病気や災いなどを取り除くためにこの日に菖蒲を飾ったのが日本の端午の節句の始まりだと言われています。

その後、江戸時代になって、菖蒲が武を貴ぶことを意味する「尚武」と同じ音であることから、端午の節句は男の子のお祭りになりました。そして、家の中によろい、かぶと、弓矢、刀などを飾り、外にこいのぼりを立てるようになりました。この習慣が現在まで続いているのです。


木々の若葉の美しい五月、青い空にはこいのぼりのこいが風を受け気持ちよさそうに泳いでいます。こいは滝を上って竜になるという言い伝えが中国にあり、また大変元気のよい魚であることから、子供の成長を願ってこいのぼりを立てるようになったのです。

またこの日、地方によって、かしわもち、ちまきなどを食べる習慣や、軒先に菖蒲をさす習慣もあります。

ひな祭り

ひな祭り

三月三日のひな祭りは女の子のお祭りです。ひな祭りにはひな段にひな人形を並べ、桃の花を飾って、ひしもち、白酒などを供えます。そして、子供たちはお互いの家を訪問して白酒を飲んだり、ごちそうを食べたりして楽しみます。三月三日にひな祭りをするようになったのは、江戸時代になってからのことだと言われています。


初めは部屋のすみに低い段を作り、それにびょうぶを立て、紙で作った男女の人形をそのびょうぶに立て掛けるだけの簡単なやり方でした。やがて宮中の人をまねて切れの着物を着た美しい人形を作って、飾るようになりました。また、それと一緒に小さなおぜん、たんす、鏡台、そのほか嫁入り道具などもひな段に並べるようになりました。


こうして、ひな祭りのやり方はだんだん豪華になっていき、今日のようなひな祭りになったのです。家によっては、親から子へ、子から孫へと受け継がれたひな人形を持っています。そのような家ではひな人形をとても大切にしています。

ところで、ひな祭りは日本全国どこでも同じやり方でするわけではありません。

鳥取県には「流しびな」といって、土や紙で作った人形を川に流してしまう所があります。日本には古くから、季節の変わり目である三月三日に、人形で自分の体をなで、身についた病気などの悪いものをその人形に移して、それを水に流すという習慣がありました。


鳥取県のこの「流しびな」の習慣は、三月三日に行われた行事の一番古い形を伝えています。


漢字の話

漢字は日本語の中で重要な働きをしているが、これは昔中国で造られたものである。しかし、一時にできたのではなく、字体が決まり、字数が増えるのには、長い年月がかかった。これらの漢字の一字一字はどのようにしてできたのだろうか。



① 象形文字


五・六千年前、中国では既に絵文字が使われていた。物の形を簡単な絵で書き表したのである。これが長い間に書きやすい単純な形に変わっていき、象形文字が生まれた。「日・山・川・木・馬・車・子」などがそれである。


② 指事文字


具体的な形のないものは象形文字では表せない。そこで、「一・二・三」のように横線の数で数量を表したり、「上・下」のようにそれぞれ「一」の上下に・を加えて位置を示したりした。これらを指事文字という。


象形文字と指事文字は字数は少ないが、それを基にして別の漢字が沢山造られている。


③ 会意文字


二つまたは三つの漢字を組み合わせて、別の意味を表す漢字を造った。それを会意文字という。例えば「木」を二つ並べた「林」、三つ合わせた「森」などは同じ文字を組み合わせた会意文字である。違う漢字を組み合わせた会意文字には「男」(田で力を出して働く者)や「鳴」(鳥の口から出る声)などがある。


④ 形声文字


二つの漢字を合わせて、一方で大体の意味を示し、一方で音を示すようにした。これを形声文字という。例えば、「洋」という漢字は「氵」(水)で水に関係のある意味の文字であることを示し、「羊」で「ヨウ」という音を示している。漢字全体の約九割はこの形声文字である。




漢字はもともと中国で造られた文字であるが、日本で新しく造った文字もある。これは国字といわれている。「峠」(山の上り下りの境)や「働く」(人が動いて仕事をする)などの漢字は国字である。これらの国字は「和語」(大和言葉)を書き表すために造り出した文字である。だから、訓読みだけで、音読みの無いのが普通であるが、なかには「労働」の「働」のように音読みのある国字もある。これは形声文字では「働」という漢字の「動」の部分が音を表すと考えられるからである。




かぐや姫

昔、ある所におじいさんとおばあさんがありました。おじいさんは竹でかごを作り、それを売って暮らしていました。ある日、おじいさんが竹やぶで竹を取っていると、一本の竹がきらきら光っていました。その竹を切ってみると、中から十センチぐらいの女の子が現れました。

おじいさんは喜んで、片手にその小さな女の子を乗せて家へ帰りました。おじいさんとおばあさんには子供が無かったので、二人は女の子にかぐや姫という名前をつけて、大切に育てました。

初めはかごに入れて育てましたが、かぐや姫はどんどん大きくなって、三ヶ月ぐらいで普通の大きさになりました。
そして、何ともいえないほど美しくなりました。かぐや姫を育てるようになってからは、おじいさんが竹やぶへ行ってたけを取っていると、竹の中から金や銀が出てきました。それでおじいさんとおばあさんはたちまち大金持ちになり、御殿のように立派な家を造って住むようになりました。
そのうちに、かぐや姫は大変美しいという評判になりました。それを聞いて、身分の高い人たちが求婚してきました。しかし、かぐや姫が相手にしなかったので、みんな何とかして自分の気持ちを伝えようとしました。でも、かぐや姫は「雷を捕まえてきてくだされば、お目にかかりましょう。」とか、「打たなくても鳴る鼓を持ってきてくだされば、いいご返事ができるでしょう。」などと言って、その人たちに会おうとはしませんでした。男たちはかぐや姫に言われた物を手に入れようとして、ある者は海へ行き、ある者は山へ行って探しましたが、どうしても見つけることができませんでした。

そのうちに、かぐや姫の評判が天皇の耳に入りました。
天皇は「その娘はこの世に二人といない美人だそうだ。会ってみて、本当に美しい娘だったら后にしよう。」と思いになりました。そして、すぐ大勢のお供を連れておじいさんとおばあさんの家へお出掛けになりました。
天皇に呼び出されると、かぐや姫はすぐ姿を見せました。天皇はかぐや姫が非常に美しいので「この娘はわたしの后になるために、ほかの男には近づこうとしなかったのだろう。」とうれしく思われました。それで、「このまま連れて帰って后にしよう。」とおっしゃいました。
すると、かぐや姫は「后にしていただくのはとてもうれしいことなのですが、実は、私は普通の人間ではありません。もうすぐ迎えの者がやって来て、私は天へ帰らなければ鳴りません。」と言いました。
天皇はそれを聞いて、「これはどういうことだろう。空から迎えの者など来るはずがない。多分わたしの求婚を断る口実だろう。」とお思いになりました。けれども、しばらくすると、空から大勢の使者が降りて来ました。そして、かぐや姫を車に乗せ、空へ昇って行ってしまいました。

その後、天皇はかぐや姫がほかに比べるものの無いほど美しかったことを思い出され、恋しくお思いになりましたが、もうどうしようもありませんでした

日本の正月


暮れも押し詰まると、役所や会社では一年の最後の仕事を終わらせて、一月三日までの休みに入ります。故郷で正月を過ごそうという人たちが、田舎へ帰りはじめるのもこのころです。北へ向かう列車は、この休みを利用してスキーに出掛ける人たちも乗り込むため、余計に混雑します。

うちで正月を迎える人たちは正月の準備を始めます。うちじゅうきれいに掃除をしてお供え餅を供え、門には門松を立てて、しめなわを飾ります。それから、正月は店も休みですから、その間に食べる食料も買っておきます。
そしてお節料理つまり正月料理を作ります。
大みそかの晩、正月の準備ができたころ、みんなでそばを食べる習慣もあります。いよいよ十二時近くになると、全国のお寺では除夜の鐘を鳴らします。ゴーン、ゴーンという低いゆったりとした鐘の音が響いてきます。百八つの鐘を突き終わると新年です。大抵の人はこれを聞いてから床に入ります。


一夜明けた元旦の朝は、しんとするほど静かです。うちの中では家族そろって食卓に着き、「明けましておめでとうございます。」とまず新年の挨拶をします。そして、おとそを飲み、お節料理や雑煮を食べて、新年を祝います。そして、郵便受けに届いた沢山の年賀状を見ます。年賀状には印刷したものの外に、自分で版画を刷ったもの、筆で書いたものなど、きれいなものもあります。「子供が生まれました」などと最近の様子を書き添えた年賀状を受け取るのは、本当に楽しいものです。


お正月には初詣といって神社やお寺へお参りに行く人もいます。「今年もよい年でありますように。」と祈るのです。初詣の人たちの中には華やかな和服を着た若い女の人たちも大勢います。


広場では子供たちがたこあげをしたり、羽根突きをしたりします。また、うちの中ではみんなでかるたとりをしたり、トランプをしたりします。


こうして、正月の三日間を過ごして、大抵四日からまた仕事が始まります。この正月の休みは一年のうちで最も日本的な風景の見られる時です。

不思議な老人

昔、沢山の馬にうりを背負わせて、大和の国から京へ上る男たちがありました。ちょうど七月の大変な暑いころだったので、男たちは木陰に馬を止め、うりを入れたかごを下ろして休んでいました。そして、自分たちが食べる為に持ってきたうりがあったので、それを取り出して食べていました。その近くで、大変年とった一人の老人がつえをついて、みんながうりを食べるのをじっと見ていました。

しばらくすると、老人は「済みませんが、そのうりを一つくださいませんか。のどが渇いて仕方がないのです。」と男たちに頼みました。しかし、男たちは「このうりはわたしたちの物ではありません。京へ持っていくように主人から命じられた物です。だから、あげたいけれども、あげるわけにはいきませんよ。」と断りました。老人は「何というひどい人たちだろう。年寄りにうり一つくれないとは。それでは、わたしはうりを作って食べることにしよう。」とつぶやきました。


そして、老人は近くにあった木の枝を拾って地面を掘り、男たちのはき捨てたうりの種を集めて、そこにまきました。すると、その種からすぐに芽が出てきました。男たちがびっくりしているうちに、その芽はどんどん伸びて緑の葉が出てきました。芽はまたどんどん茂って花が咲き、うりが沢山なりました。うりはどんどn大きくなり、大変おいしそうに塾しました。


老人はこのうりを採って食べ、男たちにも分けてやりました。それから、道を通る人たちをみんな呼び止めて食べさせました。とてもおいしいうりだったので、みんな喜んで沢山食べました。そして、老人のうりが全部無くなると、老人は「さあ、それでは出掛けましょう。」と言って、どこかへ行ってしまいました。


それからしばらくして、男たちも「さあ、出発しよう。」と言って立ち上がりました。そして、馬にかごを背負わせようとして見ると、かごの中に入れてあったうりは一つも見当たりませんでした。



注 
大和の国 今の奈良県
京  今の京都市の一部。当時の首都。